誹謗中傷の文字という凶器
インターネットやSNSの誹謗中傷
誹謗中傷は口頭で言われるよりも、テキストという可視化された状態だと相手の心を切り裂く鋭利な刃物となることがわかった。
SNSやインターネットの誹謗中傷により自害をした著名人もいる。
距離の遠い著名人よりも、わりと身近な人への誹謗中傷を目の当たりにしたときに、その可視化されたテキストの恐ろしさが身に沁みた。
確実に凶器であり、相手の心に一生深く残るであろう傷を残すものだと確信に変わった。
芸能人やスポーツ選手、政治家や上場企業や有名企業の社長、有名なYouTuber等のインフルエンサーでなければ、その凶器の被害者になることはない・・・とも言えないのが、現代である。
日本全体で見たときに著名ではない人も、ある組織やコミュニティで影響力のある方であれば、誹謗中傷の対象となる事がある。
話は変わるが、すぐ顔に出る、言いたいことを言うわがままな社員。一見問題児に見えるが、本当に問題があるのは表面面は良い顔をしていて、裏で誹謗中傷をする人間であることは言うまでもない。
悪い言葉は可視化されたテキスト(文字やLINEやmail)にすれば、より鋭利な凶器となる。
良い言葉は可視化されたテキスト(文字やLINEやmail)にすると、生きたコトバで伝えるよりも陳腐化してしまう。
そう考えると、mailやチャット、LINEは便利ではあるが、悪い言葉はより凶悪度が増し、良い言葉はその良さが薄まってしまう。
さらに、可視化されたテキストはときに送り手の意図とは異なる伝わり方になることが近年助長されているように感じる。最近だと年賀状マウント・・・。
それでもテレワークが増えると、コトバをテキスト化する機会は増える。受け取り手の感情が独り歩きする機会が増える。
だからこそ、人が会って話すことの価値が浮き彫りのように高くなっていくのは必然なのかもしれない。
LINEもmailも手放すことが出来た時、大きく不便になるが、大きな豊かさを手にできるのかもしれない。
豊かさとは不便さを探究していくことなのかもしれない。
自分は誹謗中傷なんて楽勝に受け止められると思っていたが、今回身近な人の誹謗中傷を見て、まだ受け入れられるほどの器がないことを知った。
誹謗中傷という人間の濁。悪心も受け入れる器に広げていかないと次のステージには行かれないと気づいた。
自分は受け入れても、自分は誹謗中傷を絶対にしない。影で言わない。特に絶対にしてはいけないのは、可視化・テキスト化して世の中に残る形でコミュニケートすることで生涯残る傷を相手に負わせることをしてはいけないということだ。