死生観 葬式に来てほしくないし、してほしくもない
死んだら木の根元にでも撒いて養分にしてほしい。樹木葬希望である。
葬式をしてもらうくらいなら、そのお金で子供たちに旅行でも行って楽しんでほしい。
縁のある人たちも、葬式に来る時間があったら趣味の時間や家族や自分の子供たちの時間に充てて欲しい。
昔から心配されることが嫌いで、ほっといて欲しい。大丈夫? 疲れてない? 無理しないで? さみしくない? そんなに頑張らなくていいよ 全て私にとってイラっとする言葉だ。
病院に行った方がいいとか言われると、大きなお世話だとしか思わず、自分で行こうと思わなければ絶対に行かない。
仮に余命を宣告されようが、正直あまりショックは受けない自信がある。別に今の人生が楽しくないからではなく、むしろ逆。毎日を全力で生きてる自負があるから、いつ死んでも後悔はない。
たぶん余命宣告を受けても、このような性格なので隠して、ある日突然ぽっくり亡くなると思う。
だから、私が死んだくらいで葬式には来ないで欲しい。来てもらっても私からすると迷惑な話なのだ。
そもそもきちんと遺言を書いて、まがい間違っても葬式など開かぬようにする。
お墓も私にとっては不要である。
私が死んだら、残された人たちは私のことなど忘れて楽しく人生を送ってくれるのが、1番嬉しいのである。
さて、この願いを公正証書遺言にするとしよう。
誤解されぬように書くが、死にたいとも思わないし、今何か病気にかかってるわけでもない。急がなくても人はいつか死ぬことをしっているからね。