仕事ができる人の椅子に座り続けることから生まれる苦しみや葛藤
仕事ができる人、仕事ができない人
昔から圧倒的に仕事ができる人になりたかった
仕事ができる人の部類に昔から入っていたと思う
高校3年生の時、アルバイトで圧倒的に高い評価を頂いたのが気持ちが良くて、
そこからずーっと、仕事ができる人の椅子に座り続けていたんだと思う。
32歳で大きな新規事業を成功させて、33歳で部長になって
その成功体験を手放して
また全く違う業界で平社員からやり直して
1年もかからず部長になって、経営幹部になって
「毎年売上を上げ続けないといけない」
「年収は上げ続けないといけない」
この対極にあるのが、売上が前年を割る、年収が下がるという事象が、まるで人間失格の烙印とも思える強迫観念だった
独立してからも1年目の会社とは思えない高評価を頂き、仕事ができる人の椅子に座り続けた。
どんどん椅子が高くなっていくことを感じる
そして、どこかで「来期は今期よりも売上を増やさないとダメだ、失格だ」という強迫観念の癖が抜けない
仕事ができる人には、他者からの称賛や、仕事ができない人と比較した場合に高い収入を手にできる可能性が高い。
しかし、プラスと同じ分だけのマイナス、代償がある。
その一つが、売上や年収を上げ続けないといけないというプレッシャーから生まれる葛藤
結果を生み出さないと自分には価値がないという葛藤
仕事ができる人間で有り続けないといけない、人が離れていくのではないかというプレッシャー
仕事ができない人は、他者から称賛や必要とされることが少なく、喜び(プラス)が少ない分、成果を出し続けないといけないというプレッシャーや葛藤(マイナス)は少ない。
つまり、陰陽のバランスでみたときに、仕事ができる人と仕事ができない人の幸福度はさして変わらないと見ることができる。
そして、仕事ができる人が必要で、仕事ができない人は不要というのは偏見であり、どちらも正しくてどちらも必要なのだという見方ができる。
仕事ができる人の椅子に座っていると、人脈は豊富になる。多くの人が必要としてくれる。それが心地よい時期もある。
でも見極めなければいけない局面に来たと感じている。
一つの結論が出た。
仕事ができる人の椅子から降りた時、それでも変わらず側にいてくれる人
この人が本当に縁起でつながっている人なのだろう。
何人か顔が浮かんだ。
そして、5行前の文章を即効で覆すが、仕事ができる人の椅子に座っている私にのみ興味があり、仕事ができる人の椅子から降りた私には興味のない人も受容していけばいいのだ。
受容した上で、本当に大切なひとやものは何かを探究していけばいい。その答えの一つ(あくまでも一つ)が、仕事ができる人の椅子から降りたときも側にいてくれる人なのだろう。
そして、それに気づいた今この瞬間、私は死ぬまで仕事ができる人の椅子に座り続けてもいいのかなと妙に腑に落ちた。
そして、仕事ができない人、仕事にやる気のない人を決して卑下しないこと。
そもそも、仕事ができるできないというモノサシで見る事自体意味がなく、馬鹿らしい。
仕事ができるが故に、プレッシャーや数字・売上・年収を上げ続けないといけないと苦しんでいる人がいたら、力になりたいと思う。バーンアウトしてしまう前に、声をかけてほしい。
なぜなら、仕事は頑張ってもいいけど、頑張らなくてもいい。
仕事を頑張らない人間はダメだ、屑だ それは仕事を頑張ることが美学だと思っている個人の価値観でしかない。
逆に仕事を頑張っている人間、ワーカホリック的に働いている人を「おかしな人」「仕事人間でつまらない人」と見ることも、いち個人の価値観でしかないのだ。
頑張ることが楽しい人、楽しい時期は頑張ればいい。倒れるまで仕事をしたっていいと思う。
でも、
頑張ることに疲れたり、頑張ることに生きがい、やりがいを見いだせないなら、頑張らなくてもいいと思う。